ゴッホは本当に不遇画家か? (Pixiv Fanbox)
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誰もが知る巨匠:フィンセント・ファン・ゴッホ。
著名な巨匠達の中ではゴッホは苦難な人生を歩み、不遇の天才と呼ばれています。
1枚も絵が売れなかったとか、死んでから有名になったとか様々。
今日はゴッホの人生を紹介します。
【人付き合いより絵画】 ゴッホはオランダ生まれ。6人兄弟の長男でした。
真面目で純粋で思い詰めやすく、一途な性格でカッとなったら収まらなかったそうです。
人付き合いは苦手で、一日中庭でスケッチなどをして絵を描いていたと言います。
絵の道で生きていきたいと思っていたようで画商になりますが、人間関係のトラブルもあり7年で辞めます。恋愛もしますが、長続きもせず、聖職者になろうともしますが断念します。
しかし画家としての才能は当時から飛び抜けており、弟のテオはその才能を一目で見抜き、ゴッホ27歳の時、テオの勧めもあって画家になります。
※弟のテオは有名な画商です。
【弟:テオとゴッホの関係】
よくゴッホは生前1枚も絵が売れなかったと言われていますが、最近の研究では否定されています。
テオはゴッホの生活を支援する代わりに、作品を独占的に扱う契約をしていたという見方が非常に強いとされています。
その金額は毎月約150フラン(現在の価値で15万〜20万)。弟からの送金はゴッホが絵を描いた報酬(契約金)だったのです。
ゴッホは亡くなるまでのわずか約10年間で、1600点の水彩画と800点以上の油彩画という、膨大な作品を残しました。
ゴッホは印象派の画家達との交流や、ジャポニズムの影響なども受けながら、才能を開花させていきます。
しかし人間関係が苦手なのは相変わらずで、南仏アルルでの友人ゴーギャンとの共同生活も上手くいかず、自らの耳を切り落とす「耳切り事件」を起こします。
以降、弟の結婚などで不安定になり、発作や錯乱を繰り返し、自ら精神病院に入院し、療養します。
この頃、テオに送った手紙には
「自分が死ねば君には大金が手に入る」
と送っています。
そしてようやく才能が注目され始めた頃、拳銃で自殺してしまいます。享年37。
その半年後、後を追うように、弟のテオも衰弱して亡くなりました。
その後ゴッホの個展が、テオの妻ヨーと、甥フィンセントの尽力によって実現し、死後に名声を浴びることになります。
【ゴッホの評価】
人付き合いは上手くなく、芸術に関してはめちゃくちゃ厳しい人だったようで、友人であるゴーギャンも
「私たちは意見が合うことはほとんどない。ゴッホは私の絵を気に入ってくれているのだが事あるごとに口を出してくるし、私の絵をいじられるのは我慢ならない」
と言っています。
何故ゴッホは自ら死を選んだのか?
未だに謎が多いのが事実ですが、テオが生前母親に送った手紙には
「僕の悲しみがどれほどのものか誰にも想像できないでしょう。どんなものも慰めにはなりません。僕の生の続く限り、この悲しみを背負っていかなくてはなりません。ああお母さん、彼は本当に僕のものであり、僕だけの兄だったのです。」
と書かれていていました。
私は2人は一心同体の仲だったんだろうと思えてならないのです。