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芸術と宗教というものは密接な関わりがあります。今回はその一つである枯山水についてのお話。

枯山水という言葉を聞いてどんな庭か想像出来た人はいるでしょうか?出来た人はお寺巡りをよくする人だと思います。

【夢窓疎石と枯山水】

枯山水は、川や池などの水を使わず、石や砂で構成された庭園のことです。庭園の種類の中でも最も古い形式の一つとされます。

この枯山水を極めて普及させた人物が、夢窓疎石です。

鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した臨済宗の僧です。禅の境地を庭に見出し、西芳寺、天龍寺、永保寺など多くの名庭園を築いたことで有名です。

夢窓疎石の言葉です。

「庭を好む心では世の人々と同じ庭に見える。しかし庭の景色を修行の手立てとする人の心こそ、禅の道に専念する者の心である。(夢中問答)」

つまり、禅の修行をする者は庭を宗教心で見るべきだ。と言っているのです。

では、禅と庭が何故結びつくのか?

【枯山水に見られる禅の心とは】

もともと庭園が造られた理由は「人間の生活と自然の結びつきを表現するため」です。そこに宗教的な考えが結びつき、天国と現世を繋ぐ庭(空間)として発展していきます。

庭の中を歩くスタイルの庭を「回遊式庭園」と呼びます。

しかし龍安寺の枯山水の庭園などはそうではなく、庭に立ち入ることはせず、ただ観ることを重視した作りになっています。

ここで着目するのが、庭園が石や砂のみで出来ている枯山水である理由です。

石や砂で水や草や山を表現しているのが、枯山水です。それは見ている者に想像をさせる世界です。更に言えば石や砂は半永久的であり草や水みたいに濁ったり枯れたりはしません。つまり、無の極致を現しているのです。

龍安寺の庭園などは向こうの世界を象徴しているのであり、そこに人間が入ってしまうと逆に景観を損ねることになりかねません。

禅とはひたすら坐禅をし、自分の内側に問いかけていくものです。自力本願ともいわれます。

また、枯山水は人によって観る世界や想像する世界は違います。これも自分の中にある答えは人それぞれ違うというものを現したものだとも言えます。

夢窓疎石は枯山水の庭園に、禅宗のそういった極致を見出し、様々な禅寺に布教していくことになるのです。

自らその寺のための庭園の構想を練り、実際に作り、その上完成した庭園でも修行を欠かさなかったそうです。

今で言えば、芸術家でありプロデューサーであるという二つのことを同時に実践していた人物でもありました。

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