第153回 着物マキナ描き下ろし~雑記、思考回路を言語化してみた。 (Pixiv Fanbox)
Content
こんにちは!らぐほのえりかです!
更新が一日遅くなりましてすみませんでした!おかげさまでとてもお仕事が捗りました。とても順調なのです。感謝なのです!
今日は着物マキナの描き下ろしです!
いつも何か企んでいるマキナ。
調子に乗っているマキナ。
たぶん「かわいい」って言ってもらえると確信しているマキナ。
百合百合しい野望のあるマキナ。
これで「票」も爆上がりだと思っているマキナ。
歴史の大海を俯瞰で見れるマキナ。
マキナの自我がめいっぱい詰まっている感じがお気に入りです。
以下の雑記は長めなので、お時間のあるときにでもどうぞ!
【雑記】
最近は住んでいる東京都と埼玉県の県境にあるファミリーマートや、近所の河原まで行って作業をしていることが多い私です。次の日に熊が出たりしてビビりつつも、ひたすら自然を見ながらアイディアとラフを作っています。重い作業や細かい作業は家のパソコンじゃないとできませんが!
ここはファミリーマートなんですけど、併設で農産物の直売所や地元の和菓子屋のお赤飯とかおまんじゅう、酒蔵や小さい薬局がついていたりします。思った以上に利便性が高い!そして駐車場が広い!裏手は川!
あまり関東では見かけないタイプのコンビニです。
今年の4月とか5月の頃は新型コロナウイルスの影響で車内テレワークをしに来る方を多く見かけたものですが、そういう人はすっかりいなくなって今や観光客と野菜などを納品しに来た業者さんの車くらいしか駐まっていません。みんなどこへ行ってしまったの……?
こういう場所で最近のことをぼんやりと考えていて、江戸時代末期と世相を重ねてみたりして妄想しています。主に寛政~天保くらいまで(1789年~1845年くらい)と重ねています。
私は技術の進歩や積み重ね、それに伴う恩恵はあっても、中世も現代もそんなに人間そのものは変われないし変わっていないと思っていて。当時の行き詰まり感もきっと今と似ているんだろうな、とか考えています。
妄想の具体的な中身は、たとえば相変わらずコロナは流行っているけれど気にしている人もなんだかんだで市井の人の中では減ってきてて、近所のファミレスも昼時には満席です。そういう状況を江戸末期のコレラの大流行とかと重ねてみたりして。
じゃああれやこれやの大流行は、当時大ヒットした歌舞伎の演目と一緒の感じなのかなぁとか、汁粉の振り売りとかしらたまや団子の大流行が「タピオカ」かも?とか照らし合わせてみたり。絵師は浮世絵を描き、GOTOトラベルは伊勢参り?あの頃は漢方医と蘭方医が対立していたりもしたなぁとか。このコンビニはさしづめ峠の茶屋でしょうか。今は江戸時代ではなくエゴ時代末期?雑記なので検証はしていないけれど、色々な事象が似たようなコンテキスト上に生まれるんだろうな、と。そんな感じです。
「聖人らぐほのえりか」(過去記事に出てくるゲス顔の私)がたとえば300歳以上で仙人みたいにして生きていたら、きっと今の世の中を見て「またこういう文脈か」とか思ったりして。ちなみにマキナはもっと長い間生きていますから、もっと歴史を俯瞰で見てたりするのです。
↑別の河原まで移動しました。御岳山の麓。夏でもそんなに人は来ない穴場なのです。熊にだけ気をつければOK。
じゃあ私はどんな文脈の上で作品を描いているんだろう?と考えたときに、アニメーションの語源にもなった「アニミズム」的な世界観を大切にしているんだろうと思っています。※「アニミズム」っていうのは色んな事象には魂が宿ってて云々っていう八百万(やおよろず)の神様的な世界観のことです。
「神道」とか宗教の原初的形態とか学術的には色々言われていますけど、そういう難しいことじゃなくて「モノを粗末にすると罰が当たるよ!」とかおばあちゃんの知恵的なそういうやつだと思っています。日本人は昔から自然災害が多い島に住んでいたからこそ、そういう崇拝が民族的なアイデンティティーだったんだろうなって。つまるところ私が好きな作品の女の子を崇拝しているのも極めて日本人的なんだろう、と思うのです。山、川ときて女の子。今はそうやって信じられる女の子を描き出すお仕事をしています。それが私のライフワークの文脈。
最終的な目的としてはそれらを「遺す(のこす)」ためにやっているのです。「遺す」は「遺跡」の「遺」。次の代に伝えるために、大切にしている全てを残すという意味のコトバです。
↑月初にとある仕事の打ち合わせで滞在していた豊洲。左側がオリンピックの選手村です。それを高層階から撮った写真。上の写真の川の水はここまで流れ着くのです。
「遺す」って「消費行動」とは極めて相性が悪いと感じています。現代は喉元過ぎれば自然災害などをどこか他人事にしたり、比較的無縁でいることができるネットでは自然と共生しようとする日本人らしさって徐々に減ってきているような気もしていると思っています。いや、でもその一方で辺り構わず消費する行動はもう古くなってきてはいると思いますが……。きっと時代が巡るのと同じように、一定サイクルで必要とされる考え方が巡ってくるのでしょう。そのへんはあくまで雑記なので、今日はこのくらいにして結論は出さないのです。
さてじゃあ私が「遺したい」概念ってなんぞや。それがきっと「かわいい」ものです。「かわいい」って「愛することが可能」って書くじゃないですか。だから私は「遺す」ものとして「かわいい」を選んだのです。「可愛い」を遺したい。
今日はいつもそこにぼんやり行き着いてしまう頭の中身を言語化した雑記でした。
今日みたいな内容を半年に一回くらい書いている気がします。そんなに理解はされなくていいと思ってはいるのですが、もしかしたら何となくシンパシーを感じて頂けるところもあるかもと思って書いてみました。おしまい。
めっちゃ語った。ではまた来週です!次回はゆるっといきます!
らぐほのえりかでした。